吉田茂について
吉田 茂
(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。- 1946年5月22日 : 第一次吉田内閣の成立
1946年9月27日 : 労働関係調整法の公布・施行労働関係調整法 - e-Gov法令検索
1946年11月3日 : 日本国憲法の公布日本国憲法
1947年3月31日 : 教育基本法の公布・施行教育基本法 - e-Gov法令検索
1947年3月31日 : 学校教育法の公布・施行、学校制度改革、義務教育は中学3年まで延長学校教育法 - e-Gov法令検索。
1947年4月7日 : 労働基準法の公布・施行労働基準法 - e-Gov法令検索
1947年4月14日 : 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の公布・施行私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律 - e-Gov法令検索
1947年4月25日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が131議席、野党・社会党が143議席を獲得し政権交代
1947年5月3日 : 日本国憲法の発効
1947年5月24日 : 第一次吉田内閣総辞職
1948年10月15日 : 第二次吉田内閣の成立
1949年1月1日 : 日本国憲法に適合させる改正刑事訴訟法の施行刑事訴訟法 - e-Gov法令検索
1949年1月23日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:民主自由党が264議席を獲得して政権維持
1949年6月1日 : 労働組合法の公布・施行労働組合法 - e-Gov法令検索
1950年4月15日 : 公職選挙法の公布・施行公職選挙法 - e-Gov法令検索
1950年5月4日 : 生活保護法の公布・施行生活保護法 - e-Gov法令検索
1950年6月5日 : 住宅金融公庫法の公布・施行住宅金融公庫法 - 衆議院
1950年12月13日 : 地方公務員法の公布地方公務員法 - e-Gov法令検索
1950年12月28日 : 毒物及び劇物取締法の公布・施行毒物及び劇物取締法 - e-Gov法令検索
1951年2月13日 : 地方公務員法の施行
1951年3月31日 : 結核予防法の公布・施行結核予防法(廃) - 法庫 houko.com
1951年6月30日 : 覚せい剤取締法の公布・施行覚せい剤取締法 - e-Gov法令検索
1951年9月8日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の署名
1951年11月18日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の批准
1952年4月28日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の発効
1952年7月21日 : 破壊活動防止法の公布・施行破壊活動防止法 - e-Gov法令検索
1952年10月1日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が240議席を獲得して政権維持
1953年3月17日 : 麻薬及び向精神薬取締法の公布・施行麻薬及び向精神薬取締法 - e-Gov法令検索
1953年4月19日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が議席獲得政党中の最多の199議席を獲得して政権維持
1954年5月19日 : 厚生年金保険法の公布・施行厚生年金保険法 - e-Gov法令検索
1954年6月8日 : 警察法の公布・施行警察法 - e-Gov法令検索
1954年6月9日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の公布防衛省設置法 - e-Gov法令検索
1954年7月1日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の施行
1954年12月10日 : 第五次吉田内閣総辞職
- thumb|200px|1951年、サンフランシスコ講和会議へ向かう機上にて白洲次郎(左)と
性格・特徴
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
尊皇家・臣茂
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという
1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。
住居
幣原内閣で外相に就任した際、東京・芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという
首相退陣後は神奈川県大磯町で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された大磯城山公園「旧吉田茂邸地区」が全面開放しました神奈川県庁ホームページ(2017年6月6日)。同年10月23日には、河野太郎外相と訪日したミクロネシア連邦大統領との懇談・夕食会場として使われた河野外務大臣とクリスチャン・ミクロネシア連邦大統領との懇談及び夕食会外務省報道発表(2017年10月23日)。
趣味・嗜好
吉田は落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。
大の葉巻好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。新人の番記者だった三宅久之は、吉田の印象について「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べている
もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
車における英国趣味
英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代ロールス・ロイスの中型モデル、「25/30HP」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールを頼んでまで使い続けた。
一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている
政治姿勢
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
- thumb|200px|1952年から1954年頃、鳩山一郎(右)と
辞めたくなったら…
1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。
自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、「あの殿様
ところが元政友会幹事長の松野鶴平が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
# 金作りは一切やらない
# 閣僚の選考に一切の口出しは無用
# 辞めたくなったらいつでも辞める
という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した
吉田学校・ワンマン体制
自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成した。1949年(昭和24年)の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅や大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。
孤高のサイン
thumb|200px|1951年9月8日、日米安全保障条約調印式にてアメリカ合衆国[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官ジョン・フォスター・ダレス(後方最左)らと]]
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
マッカーサーとの関係
thumb|left|200px|1954年11月5日、米国ウォルドルフ=アストリアにてダグラス・マッカーサー(左)と
吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったという話もある。
吉田のユーモアはマッカーサーに対しても発揮されている。戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と辞退したという。また、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者は出なかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と切り返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、1964年東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。
なお、東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたといわれている春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』。
曲学阿世の徒
サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は1950年5月3日、「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。5月6日、南原は学問への権力的弾圧と反論した。
同会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。
上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
水をかける
1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名である。
このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていた。まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて同居を始めている。ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られた。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには悪感情を持っていたのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげで世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。
後に皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際、吉田は「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
人を食っております
日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し、外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」と応じた。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には、「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した
吉田は米寿をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」。
ユーモア
寺内正毅が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から首相秘書官就任を要請された。しかし吉田は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と返答した。
また、ある日会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれた。抗議をする客人に対し、吉田は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かなことはないだろう」と言い訳した。
1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会では、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。
皮肉な言動
憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。
天国泥棒
妻の雪子がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父の牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている
同姓同名
同時代の内務官僚であった同姓同名の吉田茂と間違えられることが多く、両者ともこれには閉口したらしい。詳細は吉田茂 (内務官僚)を参照のこと。
その他の逸話
最初の妻・雪子と結婚する際に、痔に悩まされていることを岳父の牧野伸顕に伝えたところ、牧野からすぐにでも治すように言われ、結婚式では吉田本人が出席できず、吉田家伝来の太刀が代わりに新郎の席に飾られていた。猪木正道『評伝吉田茂』
対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田は、外務次官のポストを得ようとしたが、首相の田中義一にいったん拒絶され、スウェーデン大使に出されることになった。吉田は首相官邸に乗り込み、田中に向かって長時間にわたり次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、外務次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。以後、吉田は終生、田中のことを尊敬するようになったという。
学習院時代の恩師に海軍の命令で軍事教練担当の教師として派遣されていた鈴木貫太郎がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田は総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねた。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと伝えていたと言われている。
幣原喜重郎外相の下で次官を務めていた際、省内の文書が次官の吉田の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、能書家として知られていた幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
晩年に大勲位菊花大綬章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
1947年(昭和22年)、GHQの民主化路線に乗じて勢いを増した労働組合がストライキを乱発し、政治闘争を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト)。
- ノーベル平和賞に3回推薦されている。ノルウェー・ノーベル委員会が守秘義務期間を過ぎ開示した選考資料によれば、1965年、1966年、1967年の候補になっていたことが明らかになっているNomination Database - ノーベル賞公式サイト。特に1965年には当時の首相佐藤栄作や外相椎名悦三郎、また日本政府の働きかけによって元米国務長官ディーン・アチソン、元西ドイツ首相コンラート・アデナウアーからの推薦も得て吉田を平和賞候補にする推薦状が作られ、最終審査対象リストにも残っている
- 年譜
1878年(明治11年)9月22日 - 東京神田駿河台に生まれる
1881年(明治14年)8月 - 吉田家と養子縁組。戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業
1889年(明治22年)2月 - 寄宿制私立中学耕余義塾入学
1894年(明治27年)4月 - 耕余義塾卒業
9月 - 日本中学校(後の日本学園 )入学
1895年(明治28年)9月 - 高等商業学校(後の一橋大学)入学
11月 - 高等商業学校退校
1896年(明治29年)3月 - 正則尋常中学校(後の正則高等学校)卒業
9月 - 東京物理学校(現東京理科大学)入学
10月 - 慶應義塾入学
1897年(明治30年)10月 - 学習院高等学科入学
1901年(明治34年)8月 - 学習院高等学科卒業
9月 - 学習院大学科入学
1904年7月 - 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)
9月 - 東京帝国大学入学
1906年(明治39年)7月 - 東京帝国大学法科大学政治科卒業
9月 - 外交官および領事官試験合格、外務省入省
11月 - 領事官補として天津に赴任
1907年(明治40年)2月 - 奉天領事館に赴任
1909年(明治42年)5月9日 - 牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに赴任。12月、駐伊大使館附三等書記官
1912年(大正元年)8月 - 安東領事
1916年(大正5年)8月 - 在米大使館附二等書記官
1917年(大正6年)7月 - 文書課長心得
1918年(大正7年)2月 - 済南領事
1919年(大正8年)2月 - パリ講和会議随員
1920年(大正9年)5月 - 在英大使館附一等書記官
1922年(大正11年)3月 - 天津総領事
1925年(大正14年)10月 - 奉天総領事
1928年(昭和3年)3月 - 外駐スウェーデン公使。高等官一等
7月 - 田中義一内閣の外務次官
1930年(昭和5年) 12月 - 駐伊大使
1932年(昭和7年) - 待命
1934年(昭和9年)10月 - 外務査察使として欧米をまわる。娘和子が付き添う。
1935年(昭和10年)秋 - 外務省退官
1936年(昭和11年)6月24日 - 駐英大使
1938年(昭和13年)9月 - 帰朝命令
10月19日 - 帰朝のため離英吉田雪子『ジョージ六世戴冠式と秩父宮』長岡祥三編訳、新人物往来社、1996年 p.179
1945年(昭和20年)4月 - 近衛上奏文事件で憲兵隊に拘置
6月 - 釈放される
9月17日 - 外務大臣(東久邇宮内閣)
10月9日 - 外務大臣に留任(幣原内閣)
12月19日 - 貴族院議員に勅任
1946年(昭和21年)1月 - 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に白洲次郎を起用
5月22日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第1次吉田内閣)
8月 - 日本自由党総裁
1947年(昭和22年)4月25日 - 第23回総選挙に旧高知全県区から出馬して初当選
5月24日 - 内閣総辞職
1948年(昭和23年)3月 - 民主自由党総裁
10月15日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第2次吉田内閣)
1949年(昭和24年)1月23日 - 第24回総選挙で2回目の当選
2月16日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣)
1950年(昭和25年)3月 - 自由党総裁
6月28日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第1次改造内閣)
1951年(昭和26年)7月4日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第2次改造内閣)
12月26日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第3次改造内閣)
1952年(昭和27年)8月1日 - 保安庁発足、長官を兼任
10月1日 - 第25回総選挙で3回目の当選
10月30日 - 内閣総理大臣(第4次吉田内閣)
1953年(昭和28年)4月19日 - 第26回総選挙で4回目の当選
5月21日 - 内閣総理大臣(第5次吉田内閣)
1954年(昭和29年)12月10日 - 造船疑獄等の影響により内閣総辞職
1955年(昭和30年)2月27日 - 第27回総選挙で5回目の当選
1958年(昭和33年) 5月22日 - 第28回総選挙で6回目の当選
1960年(昭和35年)11月20日 - 第29回総選挙で7回目の当選
1963年(昭和38年)2月 - 池田総理の要請で特使として台湾を訪問し国民政府との親善関係を修復
10月14日 - 次期総選挙への不出馬を表明
10月24日 - 衆議院解散にともない政界を引退
1964年(昭和39年)4月 - マッカーサーの国葬に参列
1967年(昭和42年)10月20日 - 神奈川県大磯の私邸で永眠(89歳)
10月31日 - 国葬(戦後唯一)。墓所は港区の青山霊園
選挙歴
|衆|当落1=当|選挙名1=23|年齢1=68|選挙区1=高知県全県区|定数1=5|政党名1=日本自由党|得票数1=98,176票|得票率1=29.4%|得票順1=1|候補者1=9
|衆|当落2=当|選挙名2=24|年齢2=70|選挙区2=高知県全県区|定数2=5|政党名2=民主自由党|得票数2=81,289票|得票率2=22.9%|得票順2=1|候補者2=13
|衆|当落3=当|選挙名3=25|年齢3=74|選挙区3=高知県全県区|定数3=5|政党名3=自由党|得票数3=87,160票|得票率3=22.7%|得票順3=1|候補者3=11
|衆|当落4=当|選挙名4=26|年齢4=74|選挙区4=高知県全県区|定数4=5|政党名4=自由党|得票数4=88,620票|得票率4=24.0%|得票順4=1|候補者4=8
|衆|当落5=当|選挙名5=27|年齢5=76|選挙区5=高知県全県区|定数5=5|政党名5=自由党|得票数5=52,962票|得票率5=14.1%|得票順5=1|候補者5=11
|衆|当落6=当|選挙名6=28|年齢6=79|選挙区6=高知県全県区|定数6=5|政党名6=自由民主党|得票数6=52,286票|得票率6=12.2%|得票順6=4|候補者6=11
|衆|当落7=当|選挙名7=29|年齢7=82|選挙区7=高知県全県区|定数7=5|政党名7=自由民主党|得票数7=68,506票|得票率7=16.6%|得票順7=2|候補者7=8
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栄誉・栄典
;位階
1907年(明治40年)2月1日 - 従七位『官報』第7076号「叙任及辞令」1907年2月2日。
1930年(昭和5年)12月27日 - 正四位『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。
1967年(昭和42年)10月20日 - 従一位
;勲章等
1931年(昭和6年)
1月21日 - 勲二等瑞宝章『官報』第1218号「叙任及辞令」1931年1月23日。
10月31日 - 勲二等旭日重光章
1964年(昭和39年)4月29日 - 大勲位菊花大綬章
1967年(昭和42年)10月20日 - 大勲位菊花章頸飾
- 家族・親族
thumb|200px|1955年2月9日、九霞園にて麻生太賀吉(左)と
;生家(竹内家)
実父:竹内綱(実業家、政治家)
実母:瀧子
:ただし実母は芸者某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁によると、「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊びに精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” といったそうだから想像がつく。…」という。『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という。
実兄:竹内明太郎(実業家、政治家)
;養家(吉田家)
養父:吉田健三(旧福井藩士、実業家、ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)
養母:士子
;岳家(牧野家)
岳父:牧野伸顕(旧薩摩藩士、政治家、伯爵、明治の元勲大久保利通の三男)
岳母:峰子(旧薩摩藩士三島通庸子爵の次女)
;自家(吉田家)
妻:雪子(1941年(昭和16年)に死別)
長男:健一(英文学者)
長女:桜子(夫・吉田寛は首相岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟、外相松岡洋右の甥にあたる
次男: 正男(東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任)
次女: 江子(夭逝)
三女: 和子(福岡県、実業家・政治家麻生太賀吉夫人
:麻生太賀吉と和子の長男が第92代首相麻生太郎であり、長女信子は寛仁親王の妃である。
後妻:喜代(元新橋の芸者)
系譜
吉田家
岸秀助 ┏佐藤市郎
┣━━━━━━╋岸信介
┏茂世 ┗佐藤栄作
┃
佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛
┃
竹内綱━━━┓ ┃
┃ ┃
吉田健三==┸吉田茂 ┏桜子
┣━━━━━━━╋吉田健一
牧野伸顕━━━━雪子(1) ┣吉田正男
┃ ┣江子
喜代(2) ┗和子 ┏麻生太郎
┣━━━━╋麻生泰
麻生太賀吉 ┣雪子
┣旦子
┗信子
┣━━━━━┳彬子女王
寛仁親王 ┗瑶子女王
*
新版『吉田茂 戦後日本の設計者』朝日選書、2020年。ISBN 9784022630957
- フランキー堺(『落日燃ゆ』 1976年、 NET)
松村達雄(『日本の戦後』 、1977年4月 - 1978年2月、 NHK)
森繁久彌 (『小説吉田学校』 1983年 東宝、『関西テレビ開局25周年記念 吉田茂』1983年4月9日、フジテレビ系列)
鈴木瑞穂(『憲法はまだか』 1996年、 NHK)
原田芳雄(『ドラマスペシャル・白洲次郎』 2009年、NHK)
津川雅彦(『落日燃ゆ』 2009年、 テレビ朝日)
角野卓造(『わが家の歴史』 2010年、フジテレビ)
渡辺謙 (『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』 2012年9月 - 10月、NHK)
萩原健一 (特集ドラマ『どこにもない国』 2018年3月24日・31日、NHK)
笑福亭鶴瓶(『アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜』 2020年2月24日、テレビ東京)
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